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教育の考え方

教育の考え方

 心の美しさ

人の道は、勝敗優劣を越えた美徳を追求(喜び)

するものである。

運命を受け入れた覚悟の美しさ

学び無欲から生まれる志の美しさ

自分を生かす立ち居振る舞いの美しさ

自分を優先しない姿勢の美しさ

他を尊敬する言葉の美しさ

尊敬心をもって繋がる広がりの美しさ

家族や友人、人に対する関わり合いの美しさ

自然やものに対するあつかいの美しさ

勝敗は一時の優劣の刺激であり、こだわるものではない。

真理を求め美徳を追求することが人生道へと通じるものである

教育の目標は人格者を育てること

学ぶ目的は人格者になること

稽古の中でのより深くわかりやすい言葉による指導

青少年教育の中でも特に重要な事は「心の成長」です。もちろん武道である以上様々な身体的技術も稽古し身につける必要がありますが、心の成長が伴わなければ身につけた技術はたんなる凶器ですし、何を身につけても自分の人生には生かせません。

武道教育でよく誤解されやすいのが、ある一定の限界を超えて厳しい稽古をするば、おのずと精神力が高まるという考え方です。

 

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厳しい稽古や形式上の礼儀作法を教えても、それだけで精神的な成長は望めるほど簡単なものではありません。むしろ中途半端な指導では、身体的・技術的な強さのみを追求し、

安易に大会などで勝つことが目的となってしまい、かえって心を損なう可能性があります。

優勝できたのは精神的に向上できたからという人も見受けますが、それは栄誉などを得るための執念が強くなっただけかもしれません。

 

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武道に関わらず何らかの競技で負けた生徒に対して「この悔しさを忘れるな。次は必ず勝て」と指導している先生をよく見かけますが、「悔しさ」という感情は、教えなくても

一般的には誰もがもっている感情であり、「悔しさ」は基本的に「相手をたたきのめす」「相手をやっつける」など、破壊へ向かいやすい、むしろ幼い心です。

 

本来はその「悔しさ」を越えて「素直に相手をたたえる」などの創造的な心を指導すべきでしょう。

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もし「悔しさ」を指導するならば、負けた事では無く、例えば「礼節を守れなかった」「冷静さを保てなかった」など自己の未熟に対するものでなければなりません。

指導者自身の生きざまやそれに伴う、より深くわかりやすい言葉が道場生の精神的成長には欠かせません。

「この先生のように自分も生きたい。」とあこがれる事も

その第一歩です。

また、武術の実践の場が大会とすれば、心は家庭や社会の場で実践してこその成長ですから、その点にも留意した指導をしています。

 

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道場では、様々な言葉やその言葉を語った人の人生を学ぶ事で「心の成長」の基盤としています。

家庭での愛情にはぐくまれ、良き師を通じてその生き様と言葉を学び、自分との関わり、人との関わり、自然や社会との関わりを通じて心の成長が可能となります。

極真空手は、空手としての身体的訓練や技の鍛錬を怠ることなく、且つまた常に探求をやめることなく、実践空手として日々鍛錬を行っています。

また、身体的訓練以上に道場はもとより家庭や社会生活の中で心の修行を実践します。

若者が「強さ」を求めるのは当然のこととして、その「強さ」を越え、その向こう側に到達できるよう指導しています。

 

 

家族愛に満ちた豊かな人間性を培い、確かな空手の技術を身につけ、

自律的に生き、信頼関係を構築できる力を備えた道場生の育成をします。

 

 

家族の愛情を大切にし、思いやりにあふれる道場生育成

夢や希望の実現に向かって、絶えず対話を欠かさない

 道場生育成

節度と規律ある生活を送り、自然を愛する道場生育成

家族との良き連帯をはかり、家庭・道場一体となった教育指導

確かな空手の技術力の育成を目指した昇級指導

護身やいじめ対策など社会生活に生かされる実践空手の指導

道場生が明るく、生き生きと稽古ができることを目指した安全で潤いのある道場環境

地域に根ざし地域社会に貢献できる道場

 

国際交流を通じて、幅広い価値観や視野を持たせる。

極真空手には多くの海外支部道場があり、特に青少年の国際交流を推進しています。より年少時から、様々な国や民族、価値観に触れることにより、語学の必要性を認識させ、

視野の広い大きな認識を持った青少年が育つことを意図しています。

観光とは違い、同じ極真空手を学ぶ者同士の交流は、より深いものになりますし、また語学留学やホームステイとは違い、短期間でより多くの国際交流を持つことができます。

厳しい稽古とより深くわかりやすい言葉による指導

 

空手を含む武道教育でよく誤解されやすいのが、ある一定の限界を超えて厳しい稽古をすることで、おのずと精神力が高まるという考え方です。

厳しい稽古や形式上の礼儀作法を教えても、それだけで精神的な成長は望めません。むしろ中途半端な指導では、身体的に強さのみをめざし大会などで勝つことが目的となってしまい、

かえって心を損なう可能性があります。

 

優勝できたのは精神的に向上できたからという人も見受けますが、それは栄誉などを得るための執念が強くなっただけかもしれません。

よく負けた生徒に対して「この悔しさを忘れるな。次は必ず勝て」と指導している先生を見かけますが、「悔しさ」という感情は、教えなくても一般的には誰もがもっている感情であり、

「悔しさ」は基本的に「相手をたたきのめす」「相手をやっつける」など、破壊へ向かいやすい、むしろ幼い心であります。

本来はその「悔しさ」を越えて「素直に相手をたたえる」などの創造的な心を指導すべきでしょう。

 

もし「悔しさ」を指導するならば、負けた事では無く、例えば「礼節を守れなかった」「冷静さを保てなかった」など自己の未熟に対するものでなければなりません。

指導者自身の生きざまやそれに伴う、より深くわかりやすい言葉が道場生の精神的成長には欠かせません。「この先生のように自分も生きたい。」とあこがれる事もその第一歩です。

また、空手の実践の場が大会とすれば、心は家庭や社会の場で実践してこその成長ですから、その点にも留意した指導をしています。

社会生活に通じる実践空手

 

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 空手の稽古を通じて、どれだけ自分の技や力がついたのかを試すところが大会です。

また、それ以上に、礼節や相手を思いやる心が成長できたかも、ぎりぎりの勝敗を決する中で確認できるでしょう。

勝利が目的ではいけませんが、勝利に対して努力しない事も問題です。

日頃、勝利に対して惜しまない努力を重ね、全身全霊をもって戦い、その結果としての勝敗にはとらわれない事が寛容です。

努力しなければ、結果にはもともと、とらわれません。

 

努力してこそ結果へのこだわりがあり、そのこだわりを捨ててこそ修行といえます。

したがって極真空手は、大会を重視しますし、勝つための努力を徹底しますし、勝者に対する評価もします。

勝敗そのものを否定してしまえば、それはゲームのような仮想空間になってしまい、社会には全く通用しないものとなってしまいます。

それは、その次にくる本当の戦い、勝つことによる優越感、負けた事や補欠だった事による劣等感などの自己との戦いに必要だからです。

勝者と敗者、選抜選手と補欠選手、ケガなどの諸事情、誤審に感じる判定、周囲の声などと、どう関わって価値を創出できるのか。

結果自体が大切なのではなく、結果の後の姿勢にこそ価値があります。

それが本当の試合であり、実際の社会生活に通じる空手となります。

「強さ」を極める武道としての空手

 

故大山総裁が追求したものが「地上最強の空手」である以上、その強さを極めなければ空手とはいえません。

 

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良いものは良いとして、他流派でも異種競技でも取り入れるべきは取り入れて発展することが極真の精神です。

それを実践されたのが大山総裁ご自身でしたし、また多くの弟子の方々が「最強」を求めて様々な流派を立ち上げた事も極真の精神といえます。

道場や大会でいくら強くとも、社会生活の中では不意に襲われたり、集団に囲まれたり、狭いところで押し込められたり無数のシチュエーションが存在します。

その中で対処できなければ「最強」といっても絵に描いた餅となってしまいます。

また、それ以上に、なぜ強くならなければならないかといえば、それは義を守るためであり、道理を通すためです。また家族を守るためであり、

弱い立場の人や自然を助けるためです。

父兄の方から、自分の子供がいじめに合わないように注意していたら、いじめの加害者になってしまったということは良く聞きます。

それは義を守る心の強さと誘いを排除できる身体的強さが乏しいからです。

そのため、極真空手は、あくまでも最強の空手として「強さ」を追求し続けます。

 

自分の価値をしり、生かす道を知る -不動心の境地と自然体の極み

 

学問や修練を通じて、自分がいかなる人間になるかを自分自身で決定し、それに基づく志を立てることがすべての出発であり、

その正しい道に導く事が教育の原点です。

そして、肉体もさることながら、自分自身の魂を大切にできる人間になることが、成長の第一歩です。

黙想や学問など、正しく自分の魂を、自分自身で見つめる時間が重要です。 ※拳禅一如の「禅」にあたる

肉体は大きくなっても、魂が成長しなければ喜びはありません。

 

きれやすく感情的であったり、他者よりも自分を当然のように平気で優先できる人は、肉体的には何歳になろうとも魂は全く成長していない子供のままです。

自己中心的に生きる人は、一見、自分自身を大切にしているようですが、実際は自分のことはどうでもいいと思っている場合が多いようです。

 

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自分自身を大切にしているのではなくて、自分の立場や所有物に固執しているにすぎないことを知らないからです。

自分を大切にしている心豊かな人は、相手を傷つけたり、いじめたり、奪ったりはしません。その行為は結局、自分自身を傷つけると感じるからです。

しかし、心貧しき人は自分自身をかえりみないため、自分の立場や所有物を失うことは恐れますが、自分自身が傷ついていることは感知できません。

そのため、自己中心的に生きることが苦痛と感じられず道を誤ってしまいます。

自分を生かす道の第一歩は、自分の魂を見つめ人としての道理を探り、正義や道理にかなった事を喜びと感じ、悪や過ちを不快に思える心を育てる事です。

 

教育者として

 

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礼儀作法などの形も必要なのは当然ですが、それ以上にこの内面を育てることが重要です。

 

可能であれば青少年期ひいては幼年期にできるだけ早く育てられれば良いと思います。

そのためには、躾をかす以上に深い愛情を、叱る以上に広い理解を、関心を持ちつつも干渉はせず、今現在のその子を正すのではなく、

10年後20年後の将来を良くする地道な努力が教育者(親や先生など)には必要です。

 

教育者は、100回でわから無ければ101回目も丁寧に教え、たった1つの言葉を伝えるために1年を要してもかまわないと覚悟できる器量が必要です。

怒鳴ったり、手を挙げたり、いくら強要しても、その言葉は記憶に残っても心には残リません。

教育者には、恐怖が必要なのではなく威厳が必要なのであり、甘やかすのではなく甘えさせる愛情が必要です。

ご父兄の方で、挨拶が良くできるようなった、靴をそろえ服をたためるようになったなど、即効性のある結果に期待される方がいらっしゃいます。

確かに礼儀作法は重要ですので一理あります。

 

しかし、形を優先してしまうことでマイナスになることも、しばしばあります。厳しい先生やコーチの前で礼儀正しくしている子供が、みられていない

裏でいじめなどを行っていることもあります。

いじめの加害者の親が、うちの子に限ってというのは、親の愛情からくる欲目もあるでしょうが、厳しい親の前ではいい子であるケースが多いのです。

ですから注目していただきたいのは、良いことを喜びとして悪いことを痛みとして感じる心が育っているか、否かです。

極真空手はその事にも留意し、礼儀作法はもちろんの事、その魂の育成にこそ力を注ぎたいと考えています。故に、ご父兄と道場との連携が必要になるのです。

  • 黙想や学問など、自分自身を見つめる時間を大切にしている。
  • 人としての道理を常に考察する。
  • 自分は、どのような人間になるのか(職業ではなく)自分自身で決定できる意志を持つ。(志を持つ)
  • 義や善を喜びと感じ、道理から外れたことに痛みや不快感を感じる。
  • 自分を含め、すべての存在には価値があり、不要なものはないことを知る。
  • 得意・不得意の両方をふくめ、自分を生かす道を探る。
  • 自分自身の生い立ちや生まれなどの運命を受け入れる。(運命に責任を押しつけて逃げない)
  • 外界にとらわれて心を動かさない不動心をもつ。
  • あらゆる調和による自然体を極める。

空手道の目指す、不動心の境地と自然体の極みが、自分を生かす最良の道です。

追記:昨今の青少年教育で感じますが、子供が悪事を行った場合、見つかってしまった事は後悔しても、悪いことをしたと

感じられない子が多いことは恐ろしいことです。

また、なぜ問題なのかを教えても言葉の意味をあまりにも知らないことに驚きます。

家族の対話が薄れて来ているせいか、また会話があっても本質的な会話もなされているかをとわなければなりません。

 

                                                                          極真会館東京本部 ホームページより引用